アリストテレース『詩学』第22章「文体(語法)についての注意」は、次の一文で始まります。(訳は1997年岩波文庫版)
文体(語法)の優秀さは、明瞭であってしかも平板でないという点にある。
これだけで言い尽くしている感がありますが、もう少し見てみましょう。
日常語からなる文体はたしかにきわめて明瞭ではあるが、しかし平板である。クレオポーンやステネロスの詩がその例である。
ありきたりなままでは退屈だという。そこで…
他方、重々しさがあり、凡庸を避ける文体は、聞きなれない語を使うことによって生まれる。聞きなれない語とわたしがいうのは、稀語、比喩、延長語、そのほか日常語とは異なった語のすべてである。しかし、もし人がこのような語だけを使って試作するなら、その作品は謎[エニグマ]になるか、あるいは異国人の物言い[バルバリズモス]になるであろう。
これは文体に関する話ですが、たとえばドラムの演奏に置き換えて考えてみても、ごく自然に頷けます。
まさに、秀抜な楽曲や演奏も、アクセントとなる「稀語」のようなフレーズと、それを包み込むように支える基質としての「明瞭」なパターンとのブレンドであり、どちらか一方だけでは物足りません。
至極わかりやすいことをわかりやすく言っているのですが、それでも印象に残るのは「謎」や「稀語」といった単語のチョイスも一役買っているのでしょう。
そういう演奏をできるようになりたい。とはいえ。ついつい奇妙なものばかり選り好みしてきがちだった来し方を振り返ると、「明瞭」の探求はまだスタート地点に立ったばかりの心境です。道は遠い。
ところで、引用した章をもう少し読み進めていくと、アリストテレースは次のような示唆に富んだ言明に着地してゆきます。
合成語や稀語を含めて、上に述べた種類の語のそれぞれを適切な仕方で用いるのは重要なことであるが、とりわけもっとも重要なのは、比喩をつくる才能をもつことである。これだけは他人から学ぶことができないものであり、生来の能力を示すしるしにほかならない。なぜなら、すぐれた比喩をつくることは、類似を見てとることであるから。
なるほど。2300年前の『詩学』にドラムのことを読み込むなんて見当外れな類似を強引に見て取ったようで幾分ばつが悪い思いがしますが、確かに、優れた奏者の一瞬の判断には、その場で出ている音がもっとも心地よく響くであろう幻の最適解に似たものを、理論や譜面を一旦ショートカットして直感的に選び取るような閃きが感じられるものです。こういう閃きの出音を採譜して分析したりすることも大事ではありますが、それは影の形から本体を推測するようなことであって、実際に現場に立って反射神経を研ぎ澄ませて判断を下すプラクティスを伴わなければ片手落ちになるでしょう。
自分などはまだまだセッションでも「今のは悪手だった」云々と一瞬の判断を反省することしきり。道は遠い。